2004.11.06〜07
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「鬼無里」って知ってますか?それは長野県の西北端に位置し、長野市より西に20`、白馬、戸隠、妙高高原に囲まれて、村の中央を裾花川が流れ、人口は約2900人、主な産業は農業、米作、畜産、たばこ、きのこ栽培、林業等々・・・・2年ほど前、偶然手にした「鬼無里」の観光パンフレットを、何故か捨てられず、何度も何度も見ている内に不思議な力に引き寄せられる様に、訪れてみたい願望が日に日に募り、やっと今年、秋も深まった晴れた日に出発しました。東京から中央道〜長野自動車道〜大町と過ぎて、国道406号線に入るや急に道は狭くなり曲がりくねった道は進むにつれ高度を上げて、白沢洞門まで来た時、後を振り返ると、白馬連邦が微かに雪を被って見えました。山々の紅葉は今や盛りを過ぎて、心なしか寂しさが峠の辺りを覆っていましたが白沢洞門を抜けると、道はいよいよ狭くなり対向車とのすれ違いもママなら無い程、谷底は切れ落ち地図で感じた道のりよりずっと遠く感じました。「これより鬼無里村」の看板を見つけた時はやっと着いたと言う安堵感でホッとしました。遠かった〜!!
それから先も、やや暫く寂しい田舎道を走り、目的の宿泊先に到着。今夜の宿泊は体験交流施設「鬼無里の湯」交流施設って何だろうと思ったら、農業体験、そば打ち体験、鬼無里の野菜を使った料理を作り味わって山国の暮らしを体験出来るのだそうです。

駐車場には結構車が止まっていました。建物の中から肩に手ぬぐいを掛けて風呂上りの人が気持ち良さげに出てきます。お風呂に入って帰るだけの人もいるんですね!
3:30にチェックインを済ませ、夕食まで時間が有るので、町まで出かけました。
「鬼無里の湯」から町まで車で10分も走ったでしょうか、町と言っても御土産屋と資料館等がその辺に集まっているメインストリートで土地で採れた野菜の販売所が有りましたが、夕方なので野菜もすっかりしおれていました。明朝は9:30開店らしいから楽しみだ!

長野県と言えば美味しい「おやき」が食べれる〜!と内心期待してた所に、さっそく有りましたよ〜!店内に入るとナンだか懐かしい作りの土間がお客を迎える心に満ちているので、ついつい座布団に座って、セルフサービスのお茶なんかちゃっかり飲んじゃいました。
今、食べたら夕食が食べれなくなるかな!と思いつつも誘惑に勝てず珍しい「アザミ」のおやきを注文した。ほろ苦い独特の味だった。ところが、愛想の良い明るいおかみさんが「こんな山奥までようこそ来てくださいました」等と一個しか注文して無いのにサービスにもう一個出してくれた。嬉しかった。食べちゃった。
「鬼女紅葉(もみじ)の伝説」
紅葉は、源経基(みなもとつねもと)の寵愛を受け御種を宿したが、その頃御台所が病に伏し、病は紅葉の呪いの祈祷のせいだと噂が広まり、生かしておいては為になら無いという声も多く、経基は仕方なく紅葉をゆかりの有る戸隠の山奥の里に追いやることにした。木曽路を抜け、信濃に入り水無瀬(鬼無里)にたどり着いたのが天歴10年(西暦956年)紅葉を迎えた信濃の山々は格別美しく真赤な紅葉が清流に映えていたそうです。源経基公の御種を宿し教養が有り美しい紅葉を敬愛する村人達は日増しに多くなり、収穫物を捧げたり、館を作ったリして紅葉を歓待した。紅葉も都の話を聞かせたり、薬を作って病を治したりしたが、紅葉にとって都の栄華は忘れがたく月日が経つに連れて悔しさの余り心乱れる日々が続き、村人を愛しながらも夜になると他の村々を荒らす生活が始まった。村人には、読み書き、算数、歌舞音曲など文化を伝え、内裏屋敷から東の方を「東京」西の方を「西京」と呼び、賀茂。春日、清水、二条、三条、4条、五条などの地名をつけて京を偲び文化を伝えたりしたが、悪事を働く紅葉一党の名は都にまで聞え、戸隠の岩屋に鬼が住む、今に都を狙って来ると噂になった。女賊退治の命を受けた平維茂(たいらのこれもち)は妖術を使う紅葉にてこずるが、万物の加護を受けて鬼女紅葉の征伐に成功した。謡曲や歌舞伎の「紅葉狩り」に出てくる鬼女は、この紅葉の事だったんですね!
「松巌寺」
紅葉にゆかりの有る寺と聞いて夕闇迫る「松巌寺」に行って見ました。急な石段を登ると境内は銀杏の落葉で黄色の絨毯を敷き詰めた様でした。

紅葉が持っていた守護仏地蔵尊を村人達がまつったのが「松巌寺」の起源だそうです。拡大画像
「鬼女紅葉の墓」
伝説によると、金剛太郎と、平維茂(たいらのこれもち)に討たれた紅葉の首は天空高く舞い上がり何処とも無く消えたそうですが、境内の片隅に紅葉の墓が有りました。側にもみじがの木が・・・・・拡大画像
「もみじの家臣の墓」
今でも村人からこうして手厚く弔われている事を考えると鬼女と恐れられた紅葉も村人からは愛されていたのだな〜!と感じます。
「松巌寺本堂」
本堂内部の天井には素晴らしい装飾が施されているそうですが、暗くて良く分かりませんでした。
松巌寺を後にして国道406号線に下り立つと、鬼無里村唯一の信号がありました。信号を越え真っ直ぐ進むと戸隠方面、信号を右折すると長野に至ります。
秋の日は足早に暮れて村の家々の明かりが一つ、又一つ燈ってすっかり闇に包まれてしまいました。

サア宿に戻って、「鬼無里の湯」には入ろうか〜!・・・・
「鬼無里の湯」は透明無臭、柔らかでお肌つるんつるん!とっても気持ちの良いお湯でした。

夕食は豪華とは言え無いけれど、きのこ鍋や、鮎の塩焼き、天ぷら等、「おやき」も食べたのに、別腹の方で美味しくいただきました。特に1番手前の真ん中、四角の小鉢に入った和え物が美味しくてはじめての味だったので係りの人に聞いたら、アザミの塩漬けの料理だそうです。売店で売ってますかと聞いたら、何所にも売って無いから、春に来て山で採ったら良いですよ!・・・・・・だと・・・・う〜ん!そう来たか!拡大画像
御飯は「古代米」
赤飯のような赤い色の御飯で、微妙な塩味が美味しくてお櫃(ひつ)が空になっちゃった!
完食!満腹!
「湖沼の話の伝説」
鬼無里のこの谷は、昔、湖だったと言う。大洞峠の槻の木から綱を張って船を渡したと言う伝説が有る。中田の「十ニ社」には「舟つなぎの木」の跡が有り、また、今残されている鳥居は波よけと言われる両部鳥居で、神社の紋章は舟形の紋である。湖の水が銚子口から谷を作って流れ去ると、湖底から魚山が現われた。ここの地名を「鬼無里」と名付けられる以前は「水無瀬」と言ったそうです。
気絶した様に、10時間も眠ってしまって、目が覚めたら、朝靄の中に向いの山から朝日が昇っていた
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シングル部屋しか空いてなくて、一人だったけど返ってゆっくり熟睡できたみたい。浴衣も庭ぞうりもサンダルもついてたし、バス付きの部屋だったけど部屋のお風呂には、入るチャンスが無かった。

翌朝は、夕べの男風呂とチェンジして露天風呂の付いたほうだった。露天風呂の風呂桶は一人入ったら他の人はチョット遠慮したくなる狭さだった!せっかく広いスペースが有るのにもっと設計を変えれば良いのに!勿体無い。
ぬる過ぎてお湯も少ないから、壁に付いてた機械をアレコレいじっていたら熱いお湯が出て来た。い〜い湯だな〜!コリャコリャ!
朝食
質素な感じだけど、味付けが全部美味しいから御飯が進んで困っちゃう!特にキンピラ牛蒡が美味しかった。味噌汁は今まで食べたどの旅館の味噌汁より口に合いました。満腹満腹!拡大画像
朝食後、裾花川渓谷に沿って、車を走らせました。野山は盛りを過ぎたとは言え秋色に染まって、霞の中で静かに歴史を育んでいました。不思議に思ったのは、畑の周りには、全てネットが張られて、「さわるな危険」と書いてあり、電飾のような物が付いていました。高電流が流れるみたいです。猪避けか、鹿避け、熊避けかも知れないです。はじめて見ました。あらためて山国なんだな〜!と感じました。
「月夜の陵」
車を走らせていると、畑の中に「紅葉御殿跡」と看板が出ていたので下りてみました。今では屋敷の跡形も無く、紅葉を偲ぶよすがも有りませんでしたが、「これより60m上、月夜の陵」のささやかな看板を見つけ興味を持って微かな踏み跡をたどってみると、林の中に石柱が建っていました。

天武天皇が飛鳥から信濃の国に都を移そうと考えた時、視察に使わされた人の墓のようでした。
遷都の話」地図
「日本書紀」の白鳳年間の条に、天武天皇が飛鳥から都を移す計画を立て、三野王を信濃国に遣わしたと言う記録が有る。三野王はこの土地を見て都にしようと考えたが、それを知った鬼どもは自分達の住みかを都の者達に取られてなるものかと、この計画を阻止する為、一夜のうちに山を運んで谷の間を塞いでしまった。「一夜山」を取り除いた戸隠、虫倉、新倉の山々に囲まれた盆地の範囲は、飛鳥から遷都した藤原京、大和三山に囲まれたこの地域や、次ぎの平城京が入るほどの広さが有る。その後天皇は、阿部比羅夫を遣わして、一夜山の鬼を退治したと言う。そこで「鬼無里」の名が付いたそうです。
この辺に有る筈の「文殊堂」を探しながら更に車を走らせるが何所にも見当たらない。誰かに聞こうにも人が居ない。誰にも会わない。そう言えば昨日から村の人を見かけて無い。野菜売り場と、おやき屋の人と、宿泊した温泉の人だけだ。裾花川に沿った道の周りは、今でも民家は少なく、野沢菜畑で野良仕事をしていたおばちゃんをやっと見つけて大声で聞いて見た。「ああ、文殊堂かね、あの黄色い木が見えるじゃろ、あの木の下辺りじゃ」と曲がった腰を伸ばして指差してくれた。
教えられた黄色の木を目印に進み、裾花川に架る小さな橋を渡ると、見上げるほどの急な石段があり、老人には無理だろうな〜と思いながら上る。階段が終わると、思いがけず立派な文殊堂がありました。黄色の木って、銀杏だったのか〜!

説明をご覧下さい。
文殊堂拡大
文殊堂説明

縁由
文殊堂より更に上に向かった階段がありましたが登って行く元気がありませんでした。側には野仏が優しい顔で佇んでいて、杉の幹に朝日が映え、静寂に包まれて空気は冴え、山深い土地に来た事を実感しました。拡大画像
文殊堂を過ぎて少し走ると小さな建物から出てきたおばちゃんに止められて、これから先は「奥裾花自然園」の入園料が必要だと言う。宿で聞いたところによると、行ってみたかった「木曽殿アブキ」は、吊り橋が壊れて通行止めになっているらしいし、今の季節、水芭蕉も無い。それでもお金を取るの?って食い下がったけど、戸惑いを隠せない顔でおばちゃんは首を振った。

当然Uターンして町に戻りました。
やっぱり春に来ないと駄目だ!
「木曽殿の遺孤物語」
木曽義仲は、寿永元年(1182)、横田河原(篠ノ井)の戦いで越後の城氏(平維茂の子孫)を破り、北陸道から北へ上り、征夷大将軍となるが、近江の粟津が原で討死にした。当時、義仲はこの地を通り、その死後、二男力寿丸が裾花渓谷のアブキ(自然の洞穴)に匿われたと言い、父の守護仏文殊様を土倉にまつったと伝えられている。村内には木曽殿城跡がる。
 
「鬼無里村歴史民俗資料館」(上の2枚の写真は拡大します)

こんな山奥の誰も知らないような小さな村が、その昔は都にまで聞えた村だったなんて!と不思議に思っていたのですが、沢山の化石や出土品から察すると、原子時代から人の営みがあり、まだ現代の道が無い頃には交通の要所として大勢の旅人が行き交い、安土桃山時代から「大麻」が栽培され村は潤い、腕の良い彫刻師が産出され、贅を尽くした山車が作られた。当時は七台有った屋台も現存しているのは4台ですが、1本の木から彫り起こす「一木彫り」は神業としか思え無い程の精巧さです。許可を貰って写真を写したのですが、硝子越しで、上手く写りませんでした。是非現物を見て欲しいです。それはそれは素晴らしいんですから。その中の一台は、5月3日の鬼無里神社の祭礼に、町内を引き回され、祭りを彩るそうです。見てみたいですね〜!
村で採れた野菜の販売所が有りました。相次ぐ台風や地震の影響で野菜が物凄く高くて、この所野菜を買うのをためらっていたので、勇んで行って見ましたが、狙っていた白菜は先客に全部買い占められて、一つも残っていませんでした。ガッカリ!

それでも、きのこが安かったし、干し柿用の渋柿も買ったし、赤や黄色の茎の大きな葉っぱの野菜は売っていたおばちゃんも名前を知らなかったけど、油炒めにして鰹節と混ぜ合わせたら美味しかったし、これで900円は安いでしょ!拡大画像
国道406号線を長野市方面に抜け鬼無里村を後にしました。途中、裾花ダムまで来ると、夢から覚めたか、つき物が落ちたか、まるでタイムスリップから現代に戻ったような錯角に陥りました。トンネルをいくつか越えただけで、こんなにも違う物かと感じたのは私の考え過ぎでしょうか!今回鬼無里村を尋ねてみて、沢山の伝説が今も人々の心の中に生きて、それらを物語るいくつかの物も現存し、古代から現代に至るこの村の歴史に対して、更に興味が湧いて来ました。又何時か訪れる事になるでしょう!